ご由緒
社伝では応永(1394-1428)年間、成田五郎家時によって再興されたと伝えられますので、ご創建はそれよりも前、平安時代以前ではないかと考えられます。
忍城で有名な成田氏の庇護の下、熊谷でも随一の広大な境内地を誇る有力な神社となりましたが、天正18年に、成田氏の忍城が落城して以降はその庇護から離れ、徳川氏の尊崇を受けました。慶長9年には、徳川家康により上之村内30石が安堵されています。
社名は、明治2年に現在の上之村神社に改められるまで、「久伊豆神社」あるいは「久伊豆明神社」と号していました。
末社の「大雷神社」は大雷神を祭神とし、「上之の雷電さま」と周辺の住民から親しまれています。
大雷神社の造営に際し、成田長泰より御扉の奉納があり、この御扉と大雷神社の本殿、上之村神社の本殿は共に埼玉県指定文化財となっています。また市の指定文化財である参道の木製両部鳥居は市内最大のものです。
熊谷市鬼門の守護として鎮座し、その境内の広さは市内でも随一のものです。
・祭礼日
元旦祭 1月 1日
春 祭 3月中旬(日)
例 祭 7月27日~28日
大雷講 7月28日
秋 祭 9月29日
新嘗祭11月23日
新編武蔵風土記稿
(上村)久伊豆社
慶長九年社領三十石の御朱印を賜ふ。祭神は大山祇命にて、伊豆国三嶋社を写し祀るといへど疑ふべし。此久伊豆社と云は騎西町領に大社ありて、近郷在々是を勧請すれば、当社も恐くは彼を写せしならん。当村及箱田・池上三村の鎮守なり。
末社。
雷電。但馬国木田郡雷電社を勧請すと云傳ふ。此社の後に御手洗の小池あり。
姫宮、天神、太郎坊、次郎坊、稲荷。
随身門。
鐘楼。延宝4年鋳造の鐘を掛。
別当久見寺。伊豆国浄慶院と号す。新義真言宗、村内一乗院末。客殿に久伊豆の本地十一面観音、及雷電の本地馬頭観音を蔵す。是昔本社に掛たりしを、後年賊に牛を奪れしといへり。其図鰐口は、銘文に拠ば元当社のものにはあらで、他所より持来りしものなり。其由来は傳へず。
社人。江守大和、京都吉田家の配下なり。
社僧大正院。本山派修験、葛飾郡幸手不動院配下、古林山と号す。中興開山三乗院、天正17年3月7日寂す。不動を本尊とす。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」
上之村神社<熊谷市上之一六(上之字小宮)>
当社は、中世成田氏の本貫であった旧成田郷(大字上之)に鎮座している。社名は、明治二年に現在の上之村神社に改められるまで、「久伊豆社」あるいは「久伊豆明神社」と号していた。
久伊豆という社名の神社を『風土記稿』から拾うと、元荒川流域に北は成田郷から南は八条郷(八潮市八条)まで南北に約八〇社が分布する。これらの神社を奉斎した氏族は、明らかではないが、神社の分布と、そこに蟠踞した武蔵七党の一つである野与の分布とが合うことから、久伊豆社に野与党が古く関与していたとする説がある。また、久伊豆神社の中心となる本社というべき神社については確定できないが、中世からは成田郷・箱田・池上などの惣鎮守である当社をはじめ騎西領の惣鎮守の久伊豆社(現玉敷神社)、岩槻城及び城下町の惣鎮守の久伊豆社などが領主に崇敬される有力神社であった。
中世、当社が有力神社になり得たのは、成田郷を本貫とする古くからの豪族、成田氏の庇護を受けたからにはかならない。同氏は、『成田系図』に載る同族の別府・奈良・玉井氏などと共に「武州四家」と呼ばれた関東の名族で、特に戦国期からの勢力の拡大はめざましく、文明年間(一四六九-八七)には、成田親泰が忍城を攻略して本拠を成田郷から忍へ移し、発展の基礎を固めた。更に、その跡を継いだ長泰は、後北条氏と上杉氏の争いを巧みに利用しながら、忍領に本庄領・騎西領などを併合して成田氏所額を形成し、天正二年(一五七四)には羽生領までその支配下に置いた。
当社に残る摂社、大雷神社の扉の銘文には、「奉修造雷電宮御宝前戸扉大檀那藤原朝臣長泰」「武州崎西郡忍保大官山之内□□□年戊午五月吉日願主」の墨書がある。これに見える「長泰」は、忍城主成田長泰のことで、干支から永禄元年(一五五八)の奉納であることがわかる。この扉は、高さ一メートル、幅四七センチメートルで、表が朱塗りで裏には金箔が張ってある見事なものである。
長春の代には、既に成田氏は本拠を成田郷から忍に移しているにもかかわらず、雷電宮の造営に際し扉を奉納したということは、地縁及び血縁をもって結束している武士団にとって、その本貫に祀られている産土神がいかに重要であったかを物語るものなのであろう。
しかし、天正十八年(一五九〇)、小田原城の後北条氏が豊臣秀吉に攻略された時、これに属した成田氏の忍城も落とされたことから、同氏は旧来からの所領を没収されることになった。これを機に当社も成田氏の庇護から離れ、代わって関東に転封した徳川氏の支配に組み込まれることになった。
慶長九年(一六〇四)十一月、当社は徳川家康により久伊豆明神領として、上之村内三〇石が安堵された。
『風土記稿』によると、別当は、村内の一乗院末の真言宗伊豆山浄慶院久見寺で、客殿には当社の本地である十一面観音像及び摂社の雷電神社の本地である馬頭観音像を安置する。
また、社人は京都の吉田家配下である江森大和が、社僧は葛飾郡幸手不動院配下の本山派修験、古林山大正院が務めた。なお、中興開山の社僧は三乗院と号し、天正十七年(一五八九)三月七日に没している。
(中略)
明治二年、社名を従来の久伊豆杜から村名をとって上之村神社に改称している。祭神は、江戸期、大山祇命であったが、この年、主祭神を事代主命、相殿の神を大己貴命と大山祇命に改めている。
明治四年、上地令により、三〇石の社領は上地され、同六年の郷村社社格選定の際、第一五区一九か村の郷社に列した。
明治四十二年、字川通の無格社御嶽神社・伊奈利神社・浅間神社、字上宿の無格社諏訪神社、字荒神の無格社天神社・荒神社、字陳鍬の無格社天神社、字藤ノ宮の無格社諏訪神社、字中宿の無格社住吉神社、字三郎の無格社夷神社の計一〇社が当社に合祀された。
「「権現様の担い堀の話」
その昔、上之の成田廓(ぐるわ)の熊野大権現様と上川上の十二所廓の権現様(現伊弉諾神社)が、互いに社領の境争いをして、一晩のうちに境の堀を担って相手方の社領深く堀を置いてくることから、何度も堀が移動しました。
これを見兼ねた当社の摂社の大雷様は、互いに譲らぬ神々の仲介に立ち、自分の持つ杖を倒してその杖の倒れた所が双方の神の社領の境であると決め、双方の神もこれに納得したことから、以来、堀は移動しなくなりました。現在、成田廓と十二所廓の境にある堀は、この時大雷様が決めたものであるといいます。
上之村神社の昔ばなし
「葦毛の馬を飼わぬ話」
応永年中、領主の成田氏が葦毛の馬に乗って当社に差し掛かった時、いきなり馬が跳ねたために落馬してしまいました。いずれの神の祟りであるか近くの老人に尋ねると、正面が久伊豆大明神、東を向いているのが大雷権現であり、恐らく、これらの神々は葦毛の馬に乗ることを忌み嫌うのであろうと答えました。このため、成田氏は神威を恐れ、葦毛の馬を神馬として奉納し、社前を馬で通るのは恐れ多いのでそこを横切る道沿いに小さな土手を築かせました。以来氏子も葦毛の馬を飼わず、旅先でも葦毛の馬に乗らないといいます。