佐谷田神社
鎮座地
〒360−0023
埼玉県熊谷市佐谷田310
祭礼日
4月15日 春季大祭
8月4日 宵宮祭
8月5日 例祭
10月15日 秋季大祭
ご祭神
本社(ご本殿)
主祭神
(佐谷田)八幡神社…譽田別命(應神天皇)、神功皇后、玉依姫命
相殿神
(戸 出)神明神社…大日孁貴命、天鈿女命、手力雄命(旧戸出神社)
(平 戸)住吉神社(他国社)…底筒男命・中筒男命・表筒男命
境内末社
・富士塚(浅間神社…木花咲耶姫、小御嶽石尊大権現、大天狗、小天狗)
・三峯神社…伊弉諾尊、伊弉册尊
・稲荷神社…倉稲魂命
・琴平神社…大物主命
・八坂神社…素戔嗚尊
・天神社…菅原道真公
・伊奈利社…保食命
・厳島神社…市杵島姫命、瑞津姫命、田務姫命
・八衢比古命
・日本武尊
・天児屋根命
・大山祗命
由緒・沿革
享保7年3月11日(1722)
「 宗源宣旨(そうげんのせんじ)」を受け、正一位となる(資料現存せず)。
※「宗源宣旨」…吉田神道で、卜部家から諸社に、神宣として諸社に授ける神階・社格・神号を記した文書。文明年間(1469-1487)卜部(うらべ)兼倶に始まった。
寛政5年(1793)
伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記事あり(資料現存せず)。
※伯家神道とは、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派。白川神道とも呼ばれる。
文政2年(1819)
江戸時代、佐谷田ではしばしば蝗害が発生した。
そこで、大山寺源長坊に頼んで蝗害駆除祈願を行ったところ効果があったため、源長坊の勧めに従い、当社境内に「虫霊蝗明神」の石碑を立てることを役人に願い出た文書も残っている。
文化・文政期 1830 『新編風土記稿』より
・八幡社「八幡社 村の鎮守、永福寺持」※後の佐谷田神社
・神明社「神明社 社領七石余の朱印を賜へり、別当金錫寺 新義真言宗」
※七石の社領を明治初めに上地(あげち)されて以来零落。明治32年に時の社掌杉浦正太郎が内務大臣・農商務大臣に上地林を下げ戻しの上、境内に編入することを嘆願するも、調査を行った東京大林区署長嶋田剛太郎の「該神社は、村社なるも全く荒廃に任せ、神体は唯御幣のみ存するの状況、殆ど無格社に劣る」との報告により実現せず。
・他国社「他国明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云、超願寺持」
口碑(こうひ)に「長崎平戸の神を祀り他国社という」。
・氏子区内、八丁耕地の雷電社「雷電社 村民持」「元荒川 久下村の境を流る、村の西字八町(ママ)」新田に鎮座する雷電社の御手洗より清泉湧出して流るは即ちこの川の水元なり」。
社地には現在も形のみ残す池があり、古くはこの池の水を濁して雨乞いをしたと伝えられる。
安政5年5月(1858)
「太々神楽執行嘆願書」 数年来天災が引き続き一同難渋していたが、前年は特に田畑の出来が悪かったので、相上(現吉見町)の須長土佐守を頼み村方安全・五穀豊穣を祈って神楽を奉納したところ、村の若者が面を被って踊りに加わったため、勝手に太々神楽を行ったと誤解され、役人にとがめられたことが記されている。
安政6年9月(1859 )
「相撲興行許可願」 相撲を行って当時流行していた「疫痢之病」を退散させようとした。
明治22年(1889)
それまで北埼玉郡だった戸出・平戸が大里郡の佐谷田村と合併し佐谷田村となる。
大正2年
佐谷田・戸出・平戸が合併されたことを受け、約20年後の明治40(1907)年に戸出の神明社を、また大正2(1913)年に平戸の他国社をそれぞれ佐谷田の八幡神社本殿内に合祀することとなり佐谷田神社という今の社名に改称される。